カテゴリ: 故・筒美京平先生を偲んで

 肉体年齢、精神年齢、などと言うが、若さの基準が何処にあるのかを考えてみた。ふと思い浮かんだのが、今の季節をどう感じるかだった。若い頃は、夏の終わりに一抹の寂しさを感じたものだ。しかし今となっては、一日も早く暑さから解放されることを只管願っている。 ...

 NONA REEVESの「DJ! DJ! ~とどかぬ想い~ / feat. YOU THE ROCK☆」を聴いた時、そのイカシたサウンドが筒美京平先生のプロデュースと知ってなるほどと思った。最近になって錦織一清の「Song For You」を聴いたが、僕にとっては10年に1度あるかないかの、絶品のバラードだ ...

   人それぞれに忘れられないクリスマスイブがあるのだろうが、僕の記憶にいつまでも残っているのが1987年のイブだ。あの年は異常だった。案の定、翌年には悪夢のような日々が待っていたのだが、そんなことは勿論予測すらできず、船大工、本通り、永楽町と北新地をマラソン ...

   人の世の四苦八苦の中で一番の悲しみは「愛別離苦」だと言われる。数多ある別れの歌の中で涙を誘う〝歌詞〟といえば「喝采」かも知れないが、〝メロディー〟となると僕の場合は斉藤由貴のデビュー曲「卒業」になる。それまで、こんなにも儚くて悲しい旋律を聴いた事が ...

 嗚呼、この世は、はかなくせつない浮世絵か・・・・・・ ...

 今朝の大阪は「寒い夜明け」だった。1976年の今頃の夜明けが寒かったかどうか定かではないが、同年11月1日にリリースされた郷ひろみの「寒い夜明け」は、当時ギャグ・マンガ「まことちゃん」が大ヒットしていた楳図かずお氏の作詞によるものだ。楳図氏はホラー漫画の先駆者 ...

 1960年代と70年代の我が国ミュージック・シーンを大雑把にみると、おおむね同じような周期でアイドル・ブームが到来しているようにみえる。単独アイドルからグループ・アイドル、そしてバンド・ブームへといった流れで、年代が増すほどにそのブームに厚みが加わっている。6 ...

 京子ちゃんとは小学校3年生の時に初めて同じクラスになり、よく席が隣同士になった。その後、中学校でも同じクラスになったが、その時の彼女は部活に夢中だった。大学に入って少し経った日の午後、中学校の同窓会をやろうと、京子ちゃんが僕の自宅にやってきた。彼女は吉 ...

 かつてラジオ番組でポール・アンカの「ダイアナ」を紹介する時、ディスクジョッキーは「最強のイントロ」という言葉をよく使っていた。アレンジが神憑り的な筒美先生の作品には、「最強のイントロ」、「最強の間奏」、「最強のエンディング」そして「最強のバック・コーラ ...

   筒美先生がデビューした1966年は、ビートルズが来日した年でもあり、我が国のミュージック・シーンが大きく動いた年でもあった。翌67年には青春歌謡のアイドルたちはグループ・サウンズに人気を持っていかれる。御三家と呼ばれ、歌謡界の頂点に君臨していた橋・舟木・西 ...

   1971年は筒美京平イヤーだった。この年行われた第13回日本レコード大賞は、後に筒美京平大賞と呼ばれるほど、受賞曲の多くを筒美先生の作品が占めた。大賞を受賞した「また逢う日まで」に始まり、歌唱賞「さいはて慕情」、大衆賞「さらば恋人」、新人賞「17才」、そして ...

 元々歌謡曲が嫌いだった筒美先生は、勤務していたポリドールで主に洋楽のセレクターを務めていたが、「涙くんさよなら」のレコーディング・ディレクターを務めたことがきっかけで邦楽の道へと進み始める。そして高校時代からの友人で、当時すぎやまこういち氏のアシスタン ...

 故・筒美京平先生の作品の人気ランキングを行っているサイトがある。覗いてみると、「木綿のハンカチーフ」「また逢う日まで」「スニーカーぶるーす」などに人気が集まっているようだ。  筒美先生は1968年にいしだあゆみが歌った「ブルーライトヨコハマ」がオリコン1位と ...

   1998年7月15日の夜。僕は取引先のパーティーで有楽町の帝国ホテルに居た。宴もたけなわになった頃、主催企業の専務がやってきて、「この後、筒美京平と久しぶりに会うんだけど、一緒に来ない?」と、思わぬお誘いを受けたのだ。その専務は大学時代、筒美先生と同じサー ...

吉田豪が、キョンキョンの本が面白いと言っていたので、早速彼女のエッセイ集「黄色いマンション黒い猫」を買って読んでみた。快適に読み進んでいたら「嵐の日も彼とならば」という章に来た。あれ、このタイトル、どこかで聞いた覚えがあるなと思って読んだら、彼女がデビュ ...

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