大学に入ったばかりの頃、ジュリーの真似をするのに一生懸命だった僕は暇を見つけては書店で彼の記事が載っている雑誌を探した。丁度「危険なふたり」が大ヒットしていた頃だったので、彼を扱った記事は多かった。雑誌名は忘れたが、芸能雑誌ではなく音楽少年が好むような少しマニアックな音楽雑誌に、タイガース時代から当時に至るまでのジュリーを分析していた記事が掲載されていた。ライターは名の知れた音楽評論家だったようだが、小難しい表現がわざとらしく、全体を通して何が言いたいのかさっぱり分からない記事だった。だがその記事の中で、今でもはっきりと記憶に残っているワンラインがある。それは丁度その頃、大ブレイクしていた浅田美代子とジュリーを比較したものだった。その評論家曰く「浅田美代子は同世代の少女たちに希望を与えるが、沢田研二は同世代の男たちに絶望を与える」。僕はジュリーよりも半廻り下の世代なので、彼は僕に希望を与えてくれたが、同世代の男たちは逆だったのかも知れない。
 さて、その浅田美代子は、「おっかみさーん、じっかんでっすよー!」でデビューし、マチャアキから「音符のそばを歌う歌手」と揶揄されたアイドルだった。はたして音符のそばを歌ってもアイドルになれることが少女たちに希望を与えたのかどうか分からないが、それはそれとして当時の彼女の人気は凄まじかった。デビュー曲の「赤い風船」は1973年のオリコン週間ランキングで5月14日から6月11日まで1ヵ月間トップを走り、年間ランキングでは第10位。また同年11月号の月刊近代映画の人気投票では天地真理を抑えて見事第1位に選ばれている。僕の周囲にも彼女のファンは多く、少年マガジンの綴じ込みについていたポートレイトを大事に定期入れに入れている者もいた。ところで彼女がアルバムを発表して少し経った頃、収録されていた「夢見るシャンソン人形」を中尾ミエのバージョンと聴き比べるラジオ番組があった。司会者たちは少なからず驚きを隠せなかったようだが、明らかに浅田美代子の方が良かった。「音符のそばを歌う」歌唱力であっても音響技術の発達が十分にカバーしてくれる。だから彼女と同世代の少女たちは希望を持ち得たのだろう。

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