カントリー・ウエスタンの祭典「ウエスタン・カーニバル」は、1954年から有楽町ヴィデオ・ホールで毎年春・秋2回開催されていた。ミュージシャンたちがカバーしていたのは、ハンク・ウイリアムス、レフティ・フリゼル、カール・スミスといったウエスタン・シンガーだったが、本場アメリカでエルヴィス・プレスリーが大人気になると、1956年を皮切りに積極的にロカビリーをカバーするようになる。エルヴィス・プレスリーと並んでミュージシャンたちが好んでカバーしたのはジーン・ヴィンセントだった。一方、1955年にアメリカで公開された映画「暴力教室」のテーマ曲ビル・ヘイリーと彼のコメッツの「ロック・アラウンド・ザ・クロック」がヒットすると、ダーク・ダックスのカバーによって我が国にもロックン・ロールがお披露目となる。新しい音楽の到来は、その後の熱狂的なブームを予期するかのように当時の若者たちの心を掴んでゆく。連日ジャズ喫茶には出演するミュージシャンを応援しようと多くの親衛隊が押しかけ、ついに1957年秋のウエスタン・カーニバルには席数の5倍を超えるファンが詰めかけた。そしてその熱気はミュージシャン達にも伝わり、彼らもまた自分たちが主役となる新しい時代の到来を感じたのだった。
 カーニバルを仕切っていた堀威夫は、この熱気をもっと大規模なステージに持ち込めないかと考えていた。堀はオールスターズ・オブ・ワゴンの鳥尾敬孝とミュージック・ライフの編集長だった草野昌一と三人で、カーニバルの日劇進出を企画する。三人は日劇とパイプのあった渡辺晋に相談を持ち掛けるが、渡辺は三人の依頼に難色を示したのだ。当時プロダクションの社長だった渡辺は、同時に自ら率いるジャズ・バンド「シックス・ジョーズ」のリーダーでもあった。渡辺としては三人の依頼に応えたかったのであるが、ジャズに取って代わってブームとなっているカントリー・ウエスタンに肩入れすることは、ジャズ仲間への裏切りになると考えていたのだ。苦肉の策として渡辺は、自らは知らぬ存ぜぬを決め込み、三人の依頼を副社長の渡辺美佐に一切任せることにする。こうして何とか日劇に企画を持ち込む手はずは整ったのだが、今度は日劇側が難色を示した。当初はジャズ喫茶のような小さなハコで子供相手に騒いでいるマイナーなバンドの集まりは、大舞台には相応しくないと考えていたのだ。日劇側の意向は当時の世相と照らし合わせても極めて常識的な判断だったと言える。だが日劇も年中盛況である訳ではなかった。とりわけ客の呼べないのが2月だった。それを先読みしていたのか、または偶然だったのか、カーニバルの企画が2月であったため、最終的に日劇側は開催を承諾したのだった。堀はカーニバル開催にあたり、出演者の選考から演奏曲目、出演順の決定やチケットなどの営業活動に至るまでを精力的に取り仕切った。また美佐の妹、曲直瀬信子は、応援グッズの調達や応援の仕方など親衛隊を細やかに指導し、ステージを盛り上げるための演出を施した。こうして1958年2月8日「日劇ウエスタン・カーニバル」は幕を開けた。カーニバルは当初の予想に大きく反し、初日が9,500人、一週間で45,000人を動員する大ヒットとなり、以後1977年まで開催される超ロング・ランとなるのだった。

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