第二次大戦後、進駐軍相手のビジネスとして成立していたジャズ・ミュージックは、朝鮮戦争の休戦に伴い進駐軍が引き上げると、国内のオーディエンスを対象としなければならなくなった。そんな中、ジャズ・ミュージシャンたちの新たな活動の場として登場したのが、現在のライブ・ハウスの原型とも言えるジャズ喫茶だった。1953年9月に銀座六丁目にオープンしたテネシーは、国内の洋楽ファンが身近にライブを楽しめるスポットとして脚光を浴び始める。勢いジャズ・ブームが到来するが、一方でミュージシャンたちが自らのスキル・アップを追い求めるようになると、次第にジャズは大衆から乖離してゆく。このような傾向と対照的にオーディエンスの間で人気を呼ぶようになったのは、西部劇に登場するカウボーイの衣装を身に纏い、ボーカルを前面に押し出したカントリー・ミュージックだった。
  本場アメリカでカントリー・ミュージックが人気を呼ぶようになったのは、1925年にテネシー州ナッシュヴィルの公開ラジオ番組「グランド・オール・オプリ」が始まったからであった。この番組の存在は、我が国のミュージシャンたちにも少なからず影響を与え始める。1954年になると、スイング・ウエストのギタリストだった堀威夫は、自らが中心となってミュージシャンたちを有楽町のヴィデオ・ホールに一堂に集め、日本版「グランド・オール・オプリ」を開催する。まさにカントリー・ウエスタン・ミュージックの祭典とも言うべきこのライブ・イベントの名称こそが「ウエスタン・カーニバル」であった。
  カーニバルは毎年、春・秋と年2回開催されたが、開催に伴い次第に洋楽ファンの熱狂を浴びるようになってゆく。とりわけ1956年に、既にスター歌手になっていた小坂一也がエルヴィス・プレスリーをカバーすると、他のミュージシャンたちも次々にロカビリーをレパートリーに加え始め、そのボルテージは高まってゆくのだった。当時カーニバル以外で彼らの活動の場となっていたのは、テネシーをはじめ、ニュー美松、大阪のナンバ一番、そしてACBといったジャズ喫茶だった。これらのジャズ喫茶は1957年になるとミュージシャンたちを応援する熱狂的な親衛隊で溢れかえるようになる。そして迎えた秋のカーニバル。小坂一也をはじめ、平尾昌章とオールスターズ・ワゴン、寺本圭一とスイング・ウエスト、ミッキー・カーチスとブーツ・ブラザーズ、山下敬二郎とサンズ・オブ・ドリフターズ等を応援するため、400席しかないヴィデオ・ホールに2,000人以上のファンが集まった。既に機は熟していた。

ウエスタンの友

1957秋