1963年ダニー飯田とパラダイス・キングによるフォー・シーズンズのカバー「シェリー」のヒットを最後に、我が国におけるカバー・ポップスは次第に衰退してゆく。同年、全英チャートを席巻していたビートルズのアメリカ・デビューは、キャピトルが契約を見送り、マイナー・レーベルからのスタートとなった。キャピトルが契約を見送ったのは当時の重役がビートルズよりもキュウ・サカモトを選んだからで、その理由は日本から帰国した帰還軍人のノスタルジーを喚起するためだったと言われているが定かではない。翌年ビートルズはアメリカに上陸。1964年は世界のミュージック・シーンにとってビートルズ・イヤーとなるが、オリンピック・イヤーに沸く我が国は、超ドメスティックな「青春歌謡」が大ブームとなる。ポピュラー・ミュージックの覇権がアメリカからヨーロッパへと移り変わっていく中、国内生産音楽が席巻していた我が国では、カバー・ポップスを歌うシンガーたちは苦境に立たされていた。当時の我が国の風潮として、長髪で叫び歌うビートルズは到底受け入れ難く、カバー・バンドなどはキワモノ以下の扱いで、50年代のロカビリーのようなセンセーションは望むべくもなかったのだ。
 1965年、50年代から毎年開催されているイタリアのサンレモ音楽祭で、日本人歌手として初めて登場した伊東ゆかりが見事に入賞する。これを皮切りに我が国ではカンツォーネが脚光を浴びるようになり、同年の大賞を受賞したボビー・ソロの「君に涙とほほえみを」は布施明のデビュー・シングルとなった。http://hayashiharuto.blog.jp/archives/79633010.html
 こうしてサンレモ音楽祭の存在が認知されたことにより、カバー・ポップスを歌うシンガーたちは、以前のクリフ・リチャードやヘレン・シャピロに代わってボビー・ソロ、シルヴィ・バルタン、フランス・ギャルなどのヨーロッパのシンガーたちを次々とカバーする。 
 翌66年のサンレモ入賞曲となったウィルマ・ゴイクの「花のささやき」は、カバー・ポップスを歌う多くのシンガーたちによってカバーされたが、この曲を初めて聴いた時の旋律の美しさに鳥肌が立ったことは忘れられない。だが、そのすぐ後に「イエスタデイ」を聴いて、その印象も薄れてしまうのだが。ちなみに1965年は、ビートルズがアルバム制作と並行して映画やライブにと精力的に活動を展開し、その人気は沸点に達したといえる年であるが、我が国では人気歌謡歌手に「御三家」という称号が与えられるほど歌謡曲が沸点に達していた。
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