僕は3歳頃から三橋美智也のヒット曲を歌っていたらしいが、音楽が生活の中心になったのは1961年からだ。当時、洋楽のカバー・ポップスを歌うアイドルたちが大人気で、坂本九やダニー飯田とパラダイスキング、スリー・ファンキーズ、弘田三枝子、飯田久彦といった歌手たちがブームの中心に居た。ところが10年後の1971年になると、いわゆる歌謡曲には全く興味がなくなり、洋楽ばかりを聴くようになった。この年は「私の城下町」や「よこはまたそがれ」などのヨナ抜きが流行っていて、大ヒットした「また逢う日まで」などはGSのズー・ニー・ブーのカバーだったから新鮮味のかけらもなく、それに引き換え洋楽は、ヘビー・メタル(当時はハード・ロックと呼んでいた)からウエストコースト、プログレ、フレンチポップスに至るまで幅広いジャンルのヒット曲が目白押しだった。それから10年経つと、今度は逆に洋楽を殆ど聴くことがなくなった。考えてみると10年おきにリスニングの対象がテレビ~ラジオ~テレビと変わっていったからで、子供が2歳を迎えた1981年は、まさにテレビ中心になっていた。この年の最大のヒット曲は「ルビーの指輪」だったが、マッチやトシちゃん、松田聖子、河合奈保子などのアイドルがヒット曲を連発、「奥飛騨慕情」「みちのく一人旅」「帰ってこいよ」「大阪しぐれ」といった演歌もヒットする一方で、松山千春や前年ブレイクしたシャネルズ、T.C.R.横浜銀蝿R.S.といったグループもヒット曲を放った。また漫才ブームに乗って「恋のぼんちシート」がヒットしたかと思えば、テレビ番組から生まれたユニット・イモ欽トリオの「ハイスクール・ララバイ」も大ヒットした。さらに、この年は222日から25日にかけて『サヨナラ日劇ウエスタンカーニバル〜俺たちは走り続けている』が賑々しく行われ、この時一時的に復活したタイガースのメンバーで翌82年の同窓会コンサート開催へと続く。洋楽で記憶にあるのはノーランズとシーナ・イーストンぐらいなので、この年は1968年に続く「歌謡曲百花繚乱」の年だったのではないかと思う。ところで化粧品のCMで「渚のラブレター」が流れていた頃、僕はアメリカ西海岸を旅行した。初のアメリカ本土上陸で、サンフランシスコからロスアンジェルスへと足を運び、ハリウッドやビバリーヒルズ、ディズニーランドなどを巡った。サンフランシスコでは夕食を終えた後、ホテルに戻る途中で数人の黒人に囲まれるなど怖い思いもしたが、一つ一つが貴重な体験だった。そんな思い出深い1981年だったが、僕にとってこの年を代表する曲は、なんといってもシャネルズの「ハリケーン」と大滝詠一の「恋するカレン」。この二つの名曲は、どちらも後に複数のシンガーによってカバーされている。とりわけ「恋するカレン」は、大滝詠一が影響を受けたとされるフィル・スペクターのプロデュースで成功し、元妻に収まったロニー・スペクター(ヴェロニカ・ベネット)までがカバーしているのは非常に興味深い。