新元号発表の前日、この日もYahooはショーケンの訃報に関する話題を報じた。

スポーツ報知は〝沢田研二「ライバル」ショーケンの訃報に無言〟のタイトルで次の記事を掲載した。
 

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 〝消化管間質腫瘍のため26日に亡くなった俳優で歌手の萩原健一(はぎわら・けんいち、本名・萩原敬三)さん(享年68)の訃報を受け、バンド「PYG」でツインボーカルを務めた歌手・沢田研二(70)は30日、報道陣の問い掛けに無言を貫いた。この日正午頃、妻で女優・田中裕子(63)と外出。「萩原さんが亡くなられましたが…」との声に、うつむきながらタクシーへ乗り込んだ。グループサウンズ最盛期に人気を二分した、ザ・テンプターズの萩原さんと、ザ・タイガースのジュリーらで71年にPYGを結成。1年足らずで事実上の解散となったが、萩原さんは「ライバルだったと言えるとすれば沢田研二」と明かしていた。〟

ショーケンから見てジュリーはライバルだったそうだが、ジュリーはショーケンをどう見ていたのだろうか?ラジオかどこかの番組で彼がショーケンをカッコいいと言っていたのを聴いた覚えがあるが、僕にはリップ・サービスのように聞こえた。記事には「グループサウンズ最盛期に人気を二分した」と書いてあるが、当時を知る者としては、これもまた死者へのリップ・サービスに思える。当時、ザ・タイガース、とりわけ沢田研二の人気は圧倒的だった。http://thetigers.livedoor.biz/archives/51021843.html
 僕はその頃中学生だったが、周囲の男子生徒の間で人気があったのはショーケンだった。だがそれはあくまでもジュリーの人気の凄さに対するやっかみのように映った。ロック史家の故・黒沢進氏によれば、当時の男子が絶対に好きといってはいけない三大グループがタイガース、オックス、フォーリーブスだったそうだ。周囲の男子たちはそれをちゃんと分かっていたのだろう。ちなみに僕はスパイダースが好きだったが、それはマチャアキや順ちゃんのファンだったのではなくて、「ノー・ノー・ボーイ」「サマー・ガール」「太陽の翼」「いつまでもどこまでも」「真珠の涙」など、好きな楽曲が他のGSよりも格段多かったからだ。

さて、もともとテンプターズは、タイガースにファンを持っていかれたスパイダースの親分・田辺昭知が見つけてきたバンドで、GSの人気がアイドル化したために採ったプロダクションの戦略だった。だがこの戦略にマスコミが食いついたため、GSブームの寿命が一年延びることになる。マスコミの猛烈なプッシュでテンプターズはタイガースのライバルグループへと伸し上がり、看板スターのジュリーとショーケンのツーショットは頻繁に芸能雑誌に掲載されることとなった。「よりによって俺たちを踏みつけて行った奴らと一緒にやるのか」とマチャアキを激怒させたpygでジュリーとショーケンは同胞となるが、その前から二人は仲が良かったようだ。想像の域を出ないが、タイガースは人気の頂点に立った時点で既にグループ内に亀裂が生じていたため、ジュリーにとっては他のGSのメンバーとの交流がむしろ心地よかったのではないだろうか。またGSの象徴を自負していたジュリーにとっては、ブームを盛り上げるためにショーケンという「ライバルの存在」は歓迎すべきものだったに違いない。

1972年、ジュリーは「許されない愛」のヒットでシンガーとしてブレイクし、ショーケンは「太陽にほえろ」で俳優として大衆の認知を得る。その後二人は、互いに同じフィールドを共有しつつも、まるで違う個性を持ったアーティストとして、それぞれのシーンで活躍を続ける。GS時代にマスコミによって作られた「ライバル」という関係が、70年代以降の二人には、お互いが表現者として刺激しあう関係に導いたのかも知れない。

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