小学校、中学校、高校、大学と4度の卒業式を経験したが、何れも良い思い出が無い。特に酷かったのは高校の卒業式だった。

僕の通っていたA高校は、学区にある10校の中で5番目にランクされていた。高校受験も間近に迫った頃、志望校を決めるに当たり進路指導の教師は僕に、学区で最下位のY高校を勧めた。その事を両親に話すと、両親はA高校より下位の高校には行ってはいけないと言い出した。A高校はその昔女学校で、母が卒業生だから、それより下は駄目だというのが両親の言い分だった。だがA高校には古い歴史があり、現在に至るまで幾つかの女学校を吸収併合していた。母の通っていた女学校は彼女が卒業後、A高校に吸収併合されており、いわば母は純粋なA高校の卒業生ではなく、母校が吸収されたため卒業校がA高校にすり替わっただけなのだった。にもかかわらず、けったいな理由で両親は僕にA高校を受験するよう勧めたのだ。そのことを進路指導の教師に話すと、「合格が無理と分かっているのに受験させる訳にはいかないから君が両親を説得しろ」と僕に言った。教師と両親との間に挟まった僕を、父は見かねて中学校に直談判に出向いた。進路指導の教師は「お父さん、彼をY高校に入れてあげて青春を謳歌させてあげて下さいよ」と説得したが、その言葉に父は烈火のごとく怒り、「先生、高校は青春を謳歌する所ではありませんよ!大学の受験勉強だけをする所ですよ!」と啖呵を切った。これには進路指導の教師も「勝手にしなはれ」とさじを投げた。だが、この年A高校への男子の出願率が異常に低く、不合格者は2名だけで、幸か不幸か僕はその2名の中に入らなかった。合格発表を見た帰り中学校に行き、進路指導の教師に合格を告げると、彼は満面の笑みを浮かべ、「おめでとう!君なら絶対に合格すると思っていたよ」と言って僕に握手を求めた。所詮、大人とはこんなものだと改めて思った。

だが無理して入った高校は父の言った通り、僕にとって「大学の受験勉強だけをする所」になった。とにかく毎日、寸暇を惜しんで勉強していないと、みんなについていけなかった。僕にとってA高校でのスクール・ライフは、悪夢のような3年間となったのだ。そして、その極め付けが卒業式だった。卒業式は関西学院の合格発表と、同志社の合格発表との丁度間の日に行われた。関西学院に落ちていた僕は、どの面さげて卒業式に出るのかとボイコットを決め込んでいたが、そのことを知った担任の教師から電話があり、彼女の情に絆され、取り敢えず式に出席した。式が終わり事務的な手続きと最後の挨拶のため、僕は担任がいる研究室に出向いた。担任のデスクにはクラスの生徒達の大学別の合否が記された表が置いてあった。僕が何気に目をやると、なんと僕の欄には関西学院と並んで、発表が未だであるのに同志社「×」と記されてあったのだ。僕が文句を言うと担任は慌てて×印を消したが、彼女の隣にいた年配の女教師が「予備校の手配はちゃんと済んでるん?はよせんと一年棒に振るで」と言い放った。彼女にしてみれば親切心で言った助言かも知れないが、僕はこの時の彼女の人を見下した表情とその言葉を絶対に忘れない。

こうして卒業式が終わり、晴れてA高校との関係が切れた直後、僕は同志社から合格通知を受け取った。ほとほと僕はA高校と相性が悪かったに違いない。丁度その頃、ラジオで頻繁にかかっていたのがカーリー・サイモンの「うつろな愛」。ミック・ジャガーをフィーチャリングしている。間奏のギター・ソロは今でも弾くことが出来る。