マーク・カーランスキーは1968年を〝現代史の大きな転換点になった年〟と位置づけた。1968年は
ベトナム反戦運動や公民権運動の高まり、パリの五月革命、プラハの春など、世界中の普通の人々が時を同じくして体制に反対する行動を起こした、まさに〝世界が揺れ動いた〟激動の年だったのである。当時20歳前後だった「団塊世代」と呼ばれる人たちは、ベトナム戦争の転機となったテト攻勢や、キング牧師の暗殺、ソ連軍のチェコスロバキア侵攻、文化大革命で劉少奇が失脚するのをリアルタイムで体験した。中でも〝インテリ〟と呼ばれる大学生たちは、欧米で起きた同時多発的政治運動に連鎖するように行動を起こした。3月27日・東大医学部生による安田講堂占拠、5月27日・日大全共闘結成、6月20日・安田講堂再占拠、そして7月5日・東大全共闘結成。「60年安保」から60年代を通して、若者たちのエネルギー源となっていた〝イデオロギー〟が、彼らの行動をヒート・アップさせた。また国内外における「革命」を理想とする〝左派〟の運動が激しく展開される中にあって、ノーベル文学賞を川端康成が受賞した10月、賞の最有力候補だった三島由紀夫は「楯の会」を結成。まさに1968年は我が国にあっても「政治の季節」の沸点であったのだ。

 明けて1969年は、大衆が熱から醒め我に返ったような、ある意味前年とは時系列が分断されてしまったような、どこかに冷ややかな空気が漂う年となった。 1月、東大安田講堂を占拠する全共闘に対し、大学当局の要請で機動隊が封鎖解除に導入される。安田講堂に催涙ガス弾と放水で攻撃する機動隊に対し、学生たちが投石や火炎瓶で応戦する様子はテレビ中継によって全国へ発信された。国家権力の威力は、当時の若者たちに「革命」が幻想であることをまざまざと見せつけたのだった。3月、加橋かつみがザ・タイガースを離脱。同世代の若者たちがリアルに社会と向き合っている中で、商業主義者たちの創った世界で少女たちのアイドルを演じることに馬鹿らしさを感じての離脱だった。だがザ・タイガースの最大のヒット曲となった「花の首飾り」を歌ったのは、ヴォーカルの沢田研二ではなく加橋だった。ザ・タイガースの中で一番売れた楽曲であるということは、同時にGSの中で一番売れた楽曲を意味する。すなわち加橋はGSの中で最も売れた楽曲の表現者であり、GSが少女たちに与えたクラシカルで神秘的なイメージをも含めると、ファッション・リーダーの一人でもあった彼は、最も〝GS的〟と言える存在だったのだ。加橋の脱退後、ザ・タイガースは岸部おさみの弟シローが加入するが、事実上ロック・バンドとしての体を成さなくなり、以後彼らは〝沢田研二と彼のバック・バンド〟のような扱いを受ける。また彼らの後を追い駆けていたザ・テンプターズにおいてもヴォーカル・萩原健一のワンマン・バンドのイメージが強固となり、ついにGSブームはその終焉を迎えるのだ。
「学生運動」と「GS」-。60年代後期にヒート・アップした若者たちは、この年お互いが符合するように終息への道を辿り始める。そんな中、ミュージック・シーンにおいてもまた前年とは異質な支持層からヒットが生まれる。子役として舞台デビューし、1964年のレコード・デビュー後ヒットに恵まれなかったいしだあゆみが「ブルー・ライト・ヨコハマ」のヒットでメジャー・シーンに登場。また、この年最大のヒットとなった由紀さおりの「夜明けのスキャット」は、ラジオの深夜放送番組で火がついた。60年代後期から受験生がリスナーの中心だった深夜放送は、1965年に文化放送でスタートした若者向け深夜ラジオ番組「真夜中のリクエストコーナー」が、土居まさるのディスクジョッキーによって成功したことをきっかけに、1966年にはラジオ関東が「オールナイトパートナー」、朝日放送が「ABCヤングリクエスト」、ラジオ大阪が「オーサカ・オールナイト夜明けまでご一緒に」を開始。東京、名古屋、大阪の各放送局が相次いで終夜放送の開始に踏み切った。翌年の1967年には「パックインミュージック」(TBSラジオ)・「オールナイトニッポン」(ニッポン放送)・「MBSヤングタウン」(MBSラジオ)が、更にその翌年・1968年には「ミッドナイト東海」(東海ラジオ)がスタートし、草分けの文化放送も1969年に「セイ!ヤング」をスタートさせる。この「セイ!ヤング」ではパーソナリティを務めた落合恵子が若者の人気の的となり、「レモンちゃん」の愛称で親しまれアイドル的存在となった。「夜明けのスキャット」はこういったラジオのリクエスト番組で人気が集まり、とりわけリクエスト・ランキングでは連日トップを独走し、ついにメジャー・シーンに躍り出たのだった。またこの曲は42年の時を経た2011年、ワールドミュージックiTunesジャズ・チャートで首位となり、世界的大ヒットともなった。

さて、69年も秋になるとカバー・ポップス全盛時代に天才少女歌手としてデビューし迫力ある歌唱力で一世を風靡した弘田三枝子が、人形のように〝変身〟して歌った「人形の家」が大ヒット。1969年のミュージック・シーンは芸歴の長い実力派女性歌手たちによって席捲される。一方、男性歌手は「港町ブルース」の森進一や「長崎は今日も雨だった」の内山田洋とクールファイブなどの演歌歌手に人気が集まり、前年の熱狂が嘘のように少女たちのアイドルは鳴りを潜めるのだ。また自らが三里塚闘争に参加した〝反戦歌手〟新谷のり子の「フランシーヌの場合」やブルーベル・シンガースの「昭和ブルース」など、思想性を帯びた楽曲がヒットする。まるで反動のように、ルックスやタレント性などそれまで男性アイドルに向けられていた大衆のビジュアル志向が一変し、楽曲の秀逸性や歌い手の歌唱力に注目が集まるのだ。そしてこの年、美空ひばり以降、大衆が女性歌手に求め続けた歌の上手さ〝歌唱力〟を具現化させたような、象徴的とも言うべき演歌歌手が登場する。2013年8月22日、62歳で自らの命を絶った藤圭子は、この年の9月に「新宿の女」でレコード・デビュー。その歌唱力で一躍脚光を浴びると、翌72年2月にリリースした「女のブルース」、続いて4月にリリースした「圭子の夢は夜ひらく」が二曲連続オリコン第一位となり1970年のミュージック・シーンを席捲。またファーストアルバム「新宿の女」は二十週連続一位、間を置かずリリースしたセカンドアルバム「女のブルース」は十七週連続一位を記録。計三十七週連続一位という空前絶後の記録を達成する。彼女の歌唱力は一般大衆のみならず専門家からも高い評価を得、当時、俳優と作曲家との選択に迷っていた平尾昌章が、彼女の登場によって作曲家の道を決断したというエピソードも残っている。藤の登場は、60年代を通して大衆が女性歌手に歌唱力を求め続けた結果、導き出された到達点ともいうべきものであり、また同時に男性優位だったアイドルの時代が終わったことをも意味していた。

さて1969年は海外のミュージック・シーンにおいてもエポックとなる年であった。8月15日の午後から18日の午前にかけてニューヨーク州サリバン郡べセルの丘で行われた「ウッドストック・フェスティバル」は、あらゆるジャンルの30組を超えるアーティストと40万人の観客が集まる歴史的大イベントとなった。若者たちにとっては、自らのメッセージが全世界に向けて発信された場となったが、商業主義者たちにとっては〝ロック〟という新しいマーケット発見の場となった。そしてこのイベントをきっかけとして70年代に入るとロックは商業主義に飲み込まれてゆく。また九月には、ビートルズが事実上最後のアルバムとなる「アビー・ロード」をリリース。彼らは、1966年8月に行われたサンフランシスコのキャンドルスティック・パークでの公演を最後にライブ活動に終止符を打ち、その直後から世界初のコンセプト・アルバム「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」の制作に取り掛かった。このアルバムは全世界で3200万枚を売る大ヒットとなり、その成功は世界のアーティストに影響を与え、我が国においても彼らにインスパイアされたザ・タイガースが、1968年に日本初のトータル・コンセプト・アルバム「ヒューマン・ルネッサンス」を制作している。だが「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」の発表直後、ビートルズの初期からの成功を支えていたブライアン・エプスタインが謎の死を遂げる。そして彼の死によって、次第にグループ内に亀裂が生じ始めるのだ。彼らはその亀裂を埋めようと、69年1月から「ゲット・バック(彼らがバンドとして一体になっていた頃の原点に戻る)・セッション」プロジェクトを始めるが失敗に終わり、その後発表されたのが「アビー・ロード」だった。このアルバムは専門家たちから「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」に匹敵するとの評価を受けるが、彼らに入った亀裂は修復不可能となり、全世界が注目する中で解散へのカウント・ダウンが始まるのだった。





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